『日本語が亡びるとき』を読んでみた

 こないだ(2/13)一応読んどこうかと思ったので、『おやじがき』(内澤旬子、にんげん出版)と『紙魚のたわごと』(庄司浅水朝日新聞社)をはさみ、『日本語が亡びるとき』(水村美苗筑摩書房)を読んでみた。
 で、やっと読み終えようかというところで安吾が出てきた。水村氏は『日本文化私観』を引いて、

 安吾は結論づける。「日本人の生活が健康でありさえすれば、日本そのものが健康だ」!
 日本人がみな安吾のように、いくら文化財などを壊しても「我々は……日本を見失うはずはない」と思っているうちに、日本の都市の風景はどうなっていったか。(中略)てんでばらばらな高さと色と形をしたビルディングと、安普請のワンルーム・マンションと、不揃いのミニ開発の建売住宅と、曲がりくねったコンクリートの道と、(中略)蜘蛛の巣のように空を覆う電線だらけの、何とも申し上げようのない醜い空間になってしまった。散歩するたびの怒りと悲しみと不快。

 ちなみに水村氏が引用した文章のあと、安吾はこう続けている。

日本人の生活が健康でありさえすれば、日本そのものが健康だ。湾曲した短い足にズボンをはき、洋服をきて、チョコチョコ歩き、ダンスを踊り、畳をすてて、安物の椅子テーブルにふんぞり返って気取っている。それが欧米人の眼から見て滑稽千万であることと、我々自身がその便利に満足していることの間には、全然つながりが無いのである。(『日本文化私観』)

 水村氏はさらにこうも書く。

 「我々は日本を発見するまでもなく、現に日本人なのだ。(中略)日本を見失うはずはない」と言い放つ坂口安吾だが、「現に日本人」とはいったいどういう人を指すのか。血は日本人だが日本語を読めないという人を私はたくさん知っている。日本語は話せるが日本語を読めないという人もたくさん知っている。かれらも「現に日本人」であり、「日本を見失」っていないと言えるのか。

 そりゃ言えるでしょう。これは拡大解釈に過ぎるかもしれないが、本人が自分を「日本人」だと思っていれば、血を引いていなくても、日本語が読めなくても、たとえ話せなくても、イギリスやアメリカ、オーストラリアやブラジルに3代前から住んでいたとしても。少なくとも私はそう思う。
 それに安吾がここで「日本人」という言葉を挙げて言っているのは,「日本語が読める」とかそんな問題じゃなくて、日本に限らず「そこに住む人」がその実質に満足していれば、「その土地の文化」は健康だ、ということで(「実質」を見極める難しさをもちろん安吾は踏まえて書いている)、それは日本だろうがイギリスだろうが、日本人だろうがイギリス人だろうが関係ないことだろう。外国にいて、必死で(近代)日本語を学んだ人間と、日本にいて、とてつもない執念で外国語(サンスクリット語パーリ語、フランス語等々)を学んだ人間との違いかな。それとも個人の資質か。しかし読みゃあわかるだろうに。
 その後、水村氏は漱石の『三四郎』の一文を引き、

 日本人がこの『三四郎』を「原文」で読めなくなっても、「現に日本人」であり、「日本を見失」っていないと言えるであろうか。

 ここまでくるともう荒唐無稽である。水村氏にとっての日本とは「近代(戦前)の日本」であり、日本人とは「夏目漱石」や「樋口一葉」なのだから、話が噛み合うわけがない。ハイパー団菊ジジイである。私にも団菊ジジイの気があることは自覚しているが、水村氏の足下にも及ばない。もしやこれはギャグ小説か? ギャグ小説ならもっとギャグだとわかりやすく書いてほしい。まさか真に受ける人はいないと思うが。(……と思っていたが、けっこう真に受けて感動している人がいるみたいだ。前半の私小説風の部分はまだしも、後半の独善的で的外れな記述に賛同する人が沢山いるとは、恐ろしい。)
 『日本語が亡びるとき』。ところどころ、なるほど、と思わせる部分もあって一見論理的な記述に見えるのだが、いつの間にかこのように荒唐無稽な話になっている。まるで「風が強いから桶屋の株を買いなさい」みたいな内容だ。とくに後半、近代文学の日本語と歴史的(伝統的)仮名遣い礼賛のあたりはもう目も当てられない。
 そういえば、「具体名」で悪役(もしくは愚者・道化役)として登場する日本人は安吾だけだったかも。最後の最後に筆が滑ったのかな。巻末にちゃんと索引がついていれば、「坂口安吾」の部分だけ読んでこのトンでもない本は買わなかっただろうな。

おやじがき―絶滅危惧種中年男性図鑑 紙魚のたわごと (1966年) 日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で 日本文化私観―坂口安吾エッセイ選 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)