日本語は亡びるのか?
先週『ユリイカ』2月号の表紙に「特集*日本語は亡びるのか?」という文字を見つけて思わず手にとった。私の知らぬ間に第三次世界大戦でも始まったのかと思ったのだ。なんか大変なことが書かれているのでは!と思い、さっそく買って読んでみたんだけど、最近『日本語が亡びるとき』(水村美苗、筑摩書房)という本がえらい売れていて、それに対する文芸批評家たちの意見が書いてある、というだけのものだった。それぞれの書き手が水村氏の本から離れて、日本語をテーマにもっと好き勝手に書いてほしかったな。
当の水村美苗氏のインタビューも載っていた。最初に聞き手として前田塁氏の名前を見たとき、『小説の設計図』を読んだときのことを思い出し、はは〜ん、とだいたいの察しはついたのだが、ほぼ予想どおりの内容だった。『小説の設計図』では、「西洋の“限定されたリアル”を、さも普遍的であるかのように語っている」「ネコをトラに見立てるように、それがさも最重要課題であるかのように大げさに書き立てるのはどうだろう」と感じたのだが、水村氏の場合は“英語”ってのが別格で、その他は“現地語”になってしまいつつあるのだそうだ。で、英語と日本語ができる《二重言語者》はエリートらしい。これじゃまるで英語教室の回し者だ。
だいたい英語っていったって、「空気の振動を利用してコミュニケーションをとる地球語の一方言。地球上で最も使用者が多い」(もしや一番は中国語か?)程度の認識しか私にはない。宇宙人(?)から見ればこんなもんでしょ……非エリートの愚痴はこれぐらいにしておこう。
インタビューを読んでいても、具体的に亡びる日本語がどれなのか、何を残すべきなのかがはっきり伝わってこなかった。ただ、どうやら漱石や鷗外などの「近代文学」らしい、ということはわかった。でも、いま万葉集が現代語訳・解説付じゃないとわからないように、漱石もそのうちそうなるんだから(樋口一葉なんかかなりやばい)、なったらなったでそのときの現代語訳を読めばいいように思う。千年後の日本人に、漱石や鷗外、安吾や中上を我々と同じように味わえっていっても無理なんだから。そのとき日本で日本語が亡びていて、英語や中国語を使うようになっていたら、「近代日本文学」の英語訳中国語訳を読めばいいんだし、もちろん原語を読んで楽しめる人は原語で読めばいい。
まあこれも《単一言語者》である私のヒガミだな、と思っていたんだけど、もっとちゃんと書いてくれているブログがあった。『海難記』ってところで、遡って見ると他にも色々『日本語が亡びるとき』論争(?)について書いてある(こことかこことかこことかここ)。どれも「痒いところに手が届く」批評ですっきりした。こんな本読んで納得する人いるのかな? あ、まだ本体(『日本語が亡びるとき』)は読んでないんだった。ベストセラーの片棒を担ぐのはシャクにさわるが、一応読んでみようかな。(→読んでみた)
「雰」が気になる
最近になって初めて『すべてがFになる』(森博嗣、講談社文庫)を読んだ。で、すっかりはまり、とりあえず犀川創平&西之園萌絵のS&Mシリーズ10冊はひと通り読み終えた。んなアホな、というような強引なトリックもあったけど、謎解きどうこうより森作品の雰囲気が気に入ったので、そのうち他のシリーズも読んでみようと思う。S&Mシリーズの新作って出てないのかな?
講談社文庫の森作品を読んでいて、いつも引っ掛かったのが「雰囲気」の「雰」の字。雨と分がえらい離れていて気持ち悪い。どこの書体だろう? 本蘭明朝っぽいけどこの「雰」も? まあ内容とは関係ないので大した問題ではないのだが。
ミステリーばっかりというのもなんなので、久しぶりに「文学作品」っぽいのを読むことにした。せっかくだから活版印刷&精興社のものをと思って、本棚から『詩趣酣酣』(塚本邦雄、北澤圖書出版)を出してきた。去年ブックハウス神保町の半額コーナーで見つけて、あとがきの、
またこの書、永らくの精興社活版印刷による私の著書の最後の一册となる。謝意を含めて、記念したい。この後は一切寫植印刷となるはずである。
という文言に惹かれて買った本だ。
『詩趣酣酣』の発行は1993年9月。精興社が活版をやめるのは1995年の8月らしいから、その2年前にはすでに活版部門を畳むという話が出ていたということか。同じ著者の『紺靑のわかれ』(塚本邦雄、中央公論社)も見てみたけど、これは精興社じゃなかった。1972年発行で「本文整版印刷大日本法令印刷」とある。製版ではなくて整版というところがいかにも活版らしい。印刷はこっちの方が丁寧かも。『詩趣〜』の次はこれだな。
読みたい本や読まなくちゃいけない本はどんどん増えるけど、読む方が全然追いつかない。塚本氏の文章なんか、1ページ2分ぐらいかけてじっくり味わいたいとは思うけど、一方で速読術を会得したいなんてことも思う。速読と精読って一人の中で切り替えできるのかな? 「雰」の字一つでつまずいているようじゃ無理だろうな。
宮澤賢治全集やっと完結か
『【新】校本 宮澤賢治全集』がこの3月でやっと完結するらしい。最初に定期予約した書店はつぶれ、別の書店に行ったらバイト君に「そんな本ありません」と言われ、3軒目の書店はちゃんと対応してくれたので予約票(賢治全集と安吾全集が仲良く並んでいる)はまだサイフの中に入っているけど私の方が引っ越してしまった。電話番号も変わっちゃったしな。解約して近くの書店で取り寄せるべきか、取りにいくべきか、どうしよう。
そもそも、本当に出るのか?
全部いい
もっと戦争をしゃぶってやればよかったな。もっとへとへとになるまで戦争にからみついてやればよかったな。血へどを吐いて、くたばってもよかったんだ。もっと、しゃぶって、からみついて──すると、もう、戦争は、可愛いい小さな肢体になっていた。
やっぱ安吾っぽくないな〜。「戦争と一人の女」〔無削除版〕の一節で、ちょうどGHQの検閲で削除された部分。おなじみの削除版も十分素晴らしかったけど、この一節が入ることでグッと深みが増す。一つの作品を2度、それも2度目の方が楽しめるということで、GHQに感謝しないといけないな。
遅ればせながら岩波文庫の坂口安吾本第2弾、『桜の森の満開の下・白痴 他12篇』を読んでいる。今は「桜」の手前で小休止。前に「小説編に期待」と書いたけど、期待を上回るセレクトだ。「白痴」から「続戦争と一人の女」まで、脂が乗るとはこのことかと思ってしまうほど、圧巻の作品が並んでいる。これら昭和21〜22年頃の作品は、あまりの出来映えの良さに、逆に安吾らしくない気もしてしまう。“これが安吾”ではなくて、“これも安吾”なんだな。もっとどんくさいのもいっぱい書いてる人だから。
この頃の作品の中でも特に好きなのが「恋をしに行く」だ(「桜」は除いての話)。現実にはあり得ないほど観念的で饒舌な口説き文句の連射と、その後ガラッと変わる場面とのコントラストが素晴らしい。見事すぎる、「白痴」よりもこっちだ、と思っていたんだけど、久しぶりに読み返すと、やっぱり「白痴」もいい。「続」の付く「戦争と一人の女」もいい。この調子じゃどうせまた「青鬼」もいいと思うんだろうな。「アンゴウ」は泣けるし、「夜長姫」は言うまでもないだろう。結局、“全部いい”、か。
安吾を求めて
ブックストア談(文教堂)幕張店、ル・ミライ幕張(未来屋書店)、すばる書店ビビットスクエア南船橋店、TSUTAYA神谷町駅前店、ブックファースト城山ガーデン店、未来屋書店津田沼店、宮脇書店稲毛長沼原店。
たまたま立ち寄った店も含め、近所を中心にこんだけ回ったが岩波文庫の『堕落論・日本文化私観 他22篇』は見つからなかった。というより、このような中規模のチェーン書店には岩波文庫自体を置いているお店がほとんどない。なんかスゴいことになってるな。返品不可だと500〜600円の文庫すらも置いてもらえないのか。まあ、掛け率もあるし、文庫じゃ利益でないから仕方ないのかな。
もともと未来屋とかすばるには期待してなかったが、いくらなんでも宮脇にはあるだろうと思っていたのに。最初から神田や新宿に行けば一件落着だったんだろうけど、しかしな〜。
明日行く高円寺にはあるだろうか。安吾よ、いづこへ。
岩波文庫に安吾
とうとう坂口安吾が岩波文庫に入った。『堕落論・日本文化私観 他22篇』ということで、中身はエッセイや評論中心。全集未収録が2作品(「武者ぶるい論」「インチキ文学ボクメツ雑談」)あるとのことだし、記念に買っとこうかな。でも、残念ながら小説が入ってないんだな。安吾は小説の方がよっぽど面白いと思うんだけど、「堕落論」のイメージが強すぎて損してるような気がする。小説編に期待したい。
そういえば岩波書店、最近ヘンな噂を聞いたな。大丈夫なんだろうか。やっぱ買っとこう。
今月のユリイカも買わないといけなかったんだ。安吾と太宰だもんな〜。こないだ書店で『ケータイ名作文学 人間失格』というのを見つけて思わず買ってしまった。横組ゴシック体で太宰治とは、目の付けどころがスゴい。巻末に「わたしたちの『人間失格』」という読者の感想やコメントを紹介したコーナーがあった。ここにさりげなく「不良少年とキリスト」を紛れ込ませてほしかったな。もちろん横組ゴシック、インキはやっぱり蛍光ピンクでしょう。