王道の「僧侶」はいずこ?

 『食うものは食われる夜』(蜂飼耳、思潮社)と『孔雀の羽の目がみてる』(蜂飼耳、白水社)を読み終えた。前者は詩集、後者はエッセイ集だった。詩人の書いた文章ってやっぱりいい。とっくに使い古されたはずの言葉が新鮮に感じられる。そんな言葉に出会うと、それがエッセイであっても、この人は本物の詩人だな、と思う。
 2冊を読み終えた後、もうしばらく詩人の言葉にひたりたいと思い、積ん読本の中から『砂から』(佐々木幹郎、書肆山田)を取り出した。この本も装丁に一目惚れして買ってしまったものだ。装丁は間村俊一さん。書店の詩のコーナーで、帯が妙に細い本があると、十中八九書肆山田の本だ。この版元から出る本は、静かで品のある、とても私好みの装丁が多い。
 佐々木幹郎さんの詩も、いかにも詩人らしい、緊張感のある張りつめた言葉でいっぱいで、かつ安定感があるものだった。巻頭を飾る「思い出は 砂から/思い出すことのできぬことも/砂からはじまる」という表題作ののっけから引き込まれ、安心して読み進めることができた。若い蜂飼耳さんの後で読んだから、なおさら安定感を感じたのかもしれない。
 それにしても、詩集って今も活版が多いな。『食うもの〜』もこの『砂から』もそうだ。活版は金属の活字を使うから、文字の輪郭がシャープで縁の色も濃く出る。この一文字一文字の力強さと立体感が、詩にぴったりというわけなんだろうか。
 そんなことを考えているうちに、同じ詩で活版とオフセットではどれくらい印象が違うか調べてみたくなり、我が家の閉架図書から『僧侶 吉岡實詩集』(書肆ユリイカ)と『現代詩文庫14 吉岡実詩集』(思潮社)を引っぱり出してきた。むかし私の心をイチコロで仕留めた名作「僧侶」で比べてみようと思ったのだ。が、比較にならなかった。右上の写真のとおり、まず文字の大きさが違いすぎる。活版の『僧侶〜』の方はゆったりと大きな文字で組まれており、かたやオフの『現代〜』の方は二段組で文字も小さい。ノビノビとキツキツである。そのうえ『現代〜』は2000年発行の16刷。たぶん元は活版で版を重ねたものを、いったんフィルムにしてオフで刷ったもののようだ。これを比較対象にするのはあまりにもアンフェアである。やはり電算+オフもしくはDTP+オフという、オフセットの王道で刷られた「僧侶」でなくては。というわけで、明日から王道の「僧侶」を探すことにした。
砂から 吉岡実詩集 (現代詩文庫 第 1期14)