安吾論は詰まらない

 これまで読んできた坂口安吾の作品に関する評論の大半は詰まらないものだった。それは、それらのほとんどが坂口安吾という著者の人物像や生き様に引きずられすぎているように思われたからだ。とくに安吾と同時代に生きていた人々が書いたものにその傾向が強い。安吾が時化の海に潜ってアワビを採ったからなんだというのだ。同じような環境で育ち同じようなことをした人間は他にもきっといるはずだが、結局安吾の作品は安吾だけが書き得たものなのだ。各作品の場面場面を安吾の人生のエピソードと照らし合わせることにどんな意味があるのか? かといって最近書かれたものがいいかと言うと、安吾の言葉を「今風の用語」に置き換えただけで、安吾自身の文章に当った方がよっぽどわかりやすく正確だと思えるものの方が多いような気がする。ヘタすると自分の考えを「安吾風の言葉」に置き換えただけ、なんてのもあった。
 でも、いい文章に出会うこともある。なかでも室井尚氏の書いた「風博士とブンガク」(『ユリイカ』第18巻11号に収録、青土社)はとてもよかった。大昔に書いた卒論の中でも思いっきり引用させていただいたが、今のところこれ以上のものはないと思われるのでまたまたその一部を引用する。

みんなが安吾を好きだ。そしてみんなが安吾の小説や随筆に付いて語る。(中略)だが、それは結局──たとえどんなに強い「愛情」に支えられていたところで──かれを対象化し、標本化してしまうことにほかならないのだ。重要なのは、かれを対象化することではなく、かれとともに考えることではなかったのか。(中略)安吾が意識的、あるいは無意識的に問題化していったことを、単に「文学」の問題としてではなく、現在の問題としてさらに先に進めていくことだけが重要なのではないか。

 安吾に惚れ込み、安吾やその作品について多くの言葉を費やした人はたくさんいるが、その誰のものよりも“安吾的”な言葉だとはいえないだろうか。