『銀河鉄道の夜』

 『銀河鉄道の夜』は宮沢賢治最大の長編であり、未完成の度も、最もはなはだしいものである。文字のぬけている所もあり、錯簡も少なくないと思われる。行文の推敲のあとも著しい。いわば永遠の未完成作品というべきものである、らしい。

最終稿ではすべて削られてしまった「セロの声」は、かつての古い読者には大変印象に残る声でもあった。そんな印象的な「声」をなぜ作者は消していったのか、そこはどうしても理解しておかなくてはならないだろう。(「『銀河鉄道の夜』とは何か」村瀬学、大和書房)

 村瀬氏はこう書いた後、その削られてしまった「声」の部分を、いくつか拾い出している。

  例
「まあ、おかしな魚だわ、なんでせうあれ。」
「海豚です。」カムパネルラがそっちを見ながら答へました。
「海豚だなんてあたしはじめてだわ。けどこゝ海ぢゃないんでせう。」
「いるかは海に居るときまってゐない。」あの不思議な低い声がまたどこからか しました。
「この汽車石炭をたいてゐないねえ。」ジョバンニが左手をつき出して窓から前 の方を見ながら云ひました。
「石炭たいてゐない? 電気だらう。」
そのとき、あのなつかしいセロの、しずかな声がしました。
「この汽車は、スティームや電気でうごいてゐない。ただうごくやうにきまってゐるからうごいてゐるのだ。」

 このような例がかなり続けて引用されていた。しかし、なんだか見覚えがあった。そこで調べてみると、削られてしまってないはずの文章が、私のもっている『銀河鉄道の夜』(角川文庫)にはちゃんとあったのだ。それも「平成3年7月30日改版66版」に、である(ちなみに新潮文庫版にはなかった)。
 村瀬氏のいう最終稿がどの『銀河鉄道の夜』なのかはひとまずおき、とにかくその「声」の部分は削られたものとして考えてゆく。
 作品中セロの声は、絶対の声、絶対の答えとして現れている。ジョバンニたちが彼らなりの答えをだそうとしたとき、どこからともなく「セロの声」が聞こえてきて答えを語る。このジョバンニたちと「セロの声」との関係は、作品を読む者と作者(賢治)の関係に置き換えられると思う。それならなぜ賢治は、作品の中から自分の声、答えを消してしまったのか。村瀬氏はこう書く。

 作者自身にとっても、自分は絶対の解釈より不確実な、多様な解釈の中にしか生きられないことがよく自覚されていたので、自然にそういう修正がなされていったのだと思われる。

 確かに、「セロの声」(絶対の解釈)が消された結果、作品には不確実なものだけが残されたようにみえる。例えば作品中何度も出てくる「ほんとうの〜(幸せ、神様、いいこと)は一体何だろう」という疑問のあとには、必ずといっていいほど「わからない」「知らない」という言葉が付けられている。
 ここで私は、宮沢賢治が残した「春と修羅」という詩の中にある、次の言葉を思い出した。

まことのことばはここになく 修羅のなみだはつちにふる

 最初この詩を読んだとき、まことのことばはここになく、という言葉にとても共感したのを覚えている。しかし後の方はよく意味がわからなかった。一体修羅とは何なのだろうか。

 人間ばかりか、すべての生きとし生けるものは、すべて殺し合いの世界、修羅 の世界に生きている。それゆえ、この世界に生まれた「おれはひとりの修羅」なのだ。(中略)この修羅の世界を離れて仏の世界に行くには、どうしたらよいか。(中略)賢治は、おのれを殺す利他の行によってのみ、仏の世界へ行けると考えていたようである。(『文芸読本宮沢賢治』:「修羅の世界を超えて」梅原猛中公新書

 銀河鉄道での旅の中でジョバンニは、「ほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない」(角川文庫P.235)「きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。」(同 P236)と決心し、もとの町に帰ってくる。この決心は、この修羅の世界で、ひとりの修羅として、利他の行を行って生きてゆくのだ、という賢治の決心と重なると思う。
 旅の途中で、次々と乗客がおりてゆき、利他の行為で死んだ青年と、結果的には利他のために死んでしまった姉弟、利他の行為で死んだと思われるカムパネルラも、サウザンクロスあたりで汽車を降りたり消えたりしていなくなる。サウザンクロスとは、利他の行為をおこなって死んだ人々のゆく所、(まことのことばがあるはずの)仏の世界であり、天国である所のことだと思われる。
 宮沢賢治は仏教典の一つである法華経の信者だったが、この『銀河鉄道の夜』ではキリスト教的な言葉(ハレルヤ、十字架、等々)が多く使われている。宮沢賢治にとっては、ほんとうの神様がなにか、どの宗教が正しくてどの宗教が間違っているか、というようなことは問題ではなく、利他の行為こそが大切なことなのだと思われたのではないか。利他の行為さえも正しいのか間違いなのかわからないこの世界で、その行為を信じ行うことは、とんでもなく苦しく、悲しいこと(修羅のなみだはつちにふる)だったのだと思う。しかしその分だけ、その行為は純粋になるとも言えるだろう。宮沢賢治がこの作品で、宗教上の制約などなしに、自由自在に言葉を使うことができたのも、純粋に利他の行為として書いたためなのではないだろうか。
 『銀河鉄道の夜』は、利他の行為という教えが物語として美しく昇華されている、素晴らしい作品だと思う。