『焼跡のイエス』

 石川淳のこの作品は、『新潮』(昭和21年10月号)に発表された。
 昭和21年の7月の晦日、「わたし」が谷中の寺へ太宰春台の墓碑名の拓本をとりに行く途中、上野の闇市でボロとデキモノとウミとおそらくシラミとのかたまりのような少年を見かけ、その少年に山中で襲われてパンと財布を奪われる、という話である。
 
この少年というのがむちゃくちゃな奴だ。突然女の股に抱きついたり、「わたし」に襲いかかってパンと財布を奪ったりと、自分の感情のまま好き勝手に行動する。そのうえ一言も口をきかない。しかし、このボロとデキモノとウミとおそらくシラミとのかたまりのような少年が、「わたし」にはイエスに見えるのだ。また、少年の行動の一つ一つに、「かならずやなにか神学的意味がふくまれていて、俗物がまださとりえないでいるところの、ものの譬になっているにちがいない。(新潮文庫P.131)」 とまでいっているくらいだ。これはいったいどういうことなのだろうか。
 「わたし」は、自分の好き勝手に行動するこの少年のことをうらやましく思っているようにみえる。「わたし」の目には、この少年は、自分はこうでありたい、というような理想の人物として映っていたのではないだろうか。だからこそ「わたし」には、少年がイエスに見えたのかもしれない。

少年への意識は、女のことや、服装同様に「わたし」にとっては願望のひとつであった。(中略)いうなれば、願望の世界のイメージ化として「聖」 の世界が成立している。(『石川淳論』安藤始、桜楓社)

 たしかにイエスの名前なんかをだすと、なんだか神聖なもののような気がしてくる。石川淳は、願望の姿である少年をイエスと呼ぶことによって、その願望に「聖」のイメージを与えようとしたのかもしれない。しかしその少年は、ボロとデキモノとウミとおそらくシラミとのかたまりで強盗までする奴、とても「聖」なんて呼べないような奴なのだ。普通にいわれている「聖」のイメージと、石川淳がいだいている「聖」のイメージとはどうも違うものらしい。
 また、野口武彦氏は、『焼跡のイエス』など石川淳の戦後の作品について、次のように書いている。

 わたしは先刻それを「俗の内部なる聖性」の発見と表現したが、それはたとえば一人の戦災浮浪児の顔に浮かび出たイエスの苦患の表情、「聖」なるものの顕現としてかたちを取るのである。(中略)いまこの作家はもっとも地上 的でもっとも低俗な人性そのもののうちに、かつて天上に置き忘れられてきた「聖」なる力を探ろうとしているのである。(『石川淳論』野口武彦筑摩書房

 石川淳が探ろうとしている「聖」なる力、石川淳が願望とする世界とは、どのようなものなのだろうか。
 石川淳は、ふつう太宰治坂口安吾と並ぶ無頼派の作家に属するといわれている。岩波の国語辞典によると、無頼とは(定職を持たず)無法な行いをすること、頼るべきところのないことであり、無頼漢(無頼の男)とは、ならずもの、ごろつきのことであるらしい。石川淳たちは、ならずもののごろつきだから無頼派の作家とよばれたのだろうか。無頼派文学とはいったいなんなのだろうか。ということで『近代無頼文学』(編者:馬渡憲三郎・竹内清己、国書刊行会)という本を読んでみたが、無頼という語の解釈が細かいところで各人微妙に違っていてよくわからなかった。とにかく大ざっぱにいうと、無頼派文学とは、人間の根源的な生衝動を束縛するものとしての秩序や体制を無化しようとしたものらしい。だとすれば、無法者、ならずものの文学といっても間違いではないかもしれない。たしかにボロとデキモノとウミとおそらくシラミとのかたまりでできた少年はそのような類い凌祐屬澄

 世間に受け入れられない者だから無頼なのでもない。少年は自分の意志に従って、自分の要求するままに行動したために世間から追われ、無頼の徒と言われるにすぎないのである。(『近代無頼文学』:「石川淳─『焼跡のイエス』を中心に据えて」岩田恵子、国書刊行会

 という意見もあった。
 
闇市に集まった人々は、一見「みなモラル上の瘋癲、生活上の兇徒と見えて」も、実際には「生態も意識も今日的規定の埒外には一歩も踏み出していない(新潮文庫P.126)」のであり、石川淳の求める人間像、「聖」なる力とは、無頼の徒、今日的規定に束縛されないで、自分の要求するままに好き勝手に行動するようなこの少年のなかにこそあるのだ、ということなのだろう。しかし、どうせ無頼の徒を描くつもりだったんなら、ムスビを食うとき真新しい札を一枚出したりせずに、いきなりかぶりついて欲しかった、というのが僕の正直な感想だ。