ケータイ小説の設計図を読むことは旅をすること

 『ケータイ小説は文学か』(石原千秋ちくまプリマー新書)という本を読んでみた。実話テイストのケータイ小説に「リアリティー」はないが、「リアル」はある。本物ではないフィクションにリアリティー(本物らしさ・現実らしさ)を感じさせることが「作者」の腕の見せ所なのだが、ケータイ小説は始めから「実話がベース」と謳うことで、「リアリティー」の工夫はいらなくなるという。ただしこの「リアル」は、ケータイサイトに足繁く通っている「少女」たちの間の、「限定されたリアル」だそうだ。なるほど。私はその「限定」にはじかれてしまったということなんだろう。しかし実話ベースだからリアリティはいらないって、そんな単純なもんかな。みんな作り話だと承知の上で読んでいるんじゃないの?
 あと、恋愛小説につきものの「誤配」(正しい宛先ではなく間違った宛先に届いた方が事件が起きやすい)や「ホモソーシャル」(男性中心社会)をキーワードに、実際のケータイ小説作品を読み解いたりと、なかなかわかりやすく、同意できる部分も多かった。
 
 本格的な文芸批評っぽいのを読みたくなって『小説の設計図』(前田塁青土社)も読んでみた。最初タイトルに惹かれて書店で手にとり、帯で蓮實重彦氏が「文学の評論がいま、嘘のように息を吹き返した」と誉めていたので面白そうだと思ったのだ。
 まずのっけに、「だからこんにちの私(たち)は……」の“私(たち)”を見た瞬間にイヤな予感がした。読み進めると案の定「シニフィエ」「シニフィアン」「表象」「代行」等々、なにをいまさらという単語が“いまさら書くまでもないが”みたいな前置き付きで“嘘のように息を吹き返し”ていた。別にそれを書くのはいいんだけど、ネコをトラに見立てるように、それがさも最重要課題であるかのように大げさに書き立てるのはどうだろう。でも、本文自体はそこそこ面白く読めた。巻末の「補論 ノート1、2」が酷かった。とにかくクドい。出来損ないの「蓮實重彦」か小粒の「柄谷行人」って感じ。そういえばこの両者の文章もさんざん引用されていたな。あとマルクスも。
 どうも西洋風現代思想系の人たちの書くものは苦手だ。それこそ西洋の「限定されたリアル」を、さも普遍的であるかのように語っている(前田氏風に書くと“騙っている”?)ような印象を受けてしまう。私の理解力ではとてもついていけない。それに、なんか引用の仕方が私の体質に合わないんだな。この本でも、本文では他人の文章をネタに、巻末ノートでは他人の文章をアテにしてるみたいでぜんぜん敬意が感じられないから、引用元を読んでみようという気になれない。これって文芸批評本とか作品解説本という意味では、欠陥商品なんじゃないか?
 
 なんてことを思いながら、すがるように読み始めたのが『読むことは旅をすること ─私の20世紀読書紀行』(長田弘平凡社)。まだ前半しか読んでないけど、とてもいい。前半では、ポーランドの旅について、ポーランドに関わる本、作家や詩人の言葉などを織りまぜながら綴っている。とくにジョセフ・コンラッドへのインタビューを紹介した部分なんか、とても感動した。コンラッドポーランド出身なんて知らなかった。

 「こう言っていいでしょうか」若いポーランドの作家が訊ねる。「それでも一人のイギリスの作家のなかにはポーランドが生きつづけている、と」
 「誰がそれを疑うのです?」コンラッドは、即座に答えた。
 「ポーランドとは、きみたち──われわれのことなのだ。イギリスの批評家たちはそのことを知らない……

 ここだけ引用しても伝わらないだろうなぁ。あと、同じインタビューの“グッド・ラック”のくだりも、グッときた。
 続けて、アウシュヴィッツ収容所とブジェジンカにあるビルケナウ収容所の廃墟を訪ねたシーンでの、引用ではない著者自身の言葉。

 わたしたちが死者を思い起こすとき、死者がわたしたちに思い起こさせるのは、ほんとうは過去なのではない。いま、ここにあるわたしたちの現在のありようなのだと思う。静かにひろがったブジェジンカのうつくしい秋の光景のなかにないものは、ただ一つ、わたしの言葉だった。

 どこを切っても、他者への敬意というか、謙虚さを忘れない文章がある。文芸批評本と旅行記を比べるのもどうかと思うけど、私はやっぱりこっちの方が好きだな。

ケータイ小説は文学か (ちくまプリマー新書) 小説の設計図(メカニクス) 読むことは旅をすること―私の20世紀読書紀行